明治の「超能力者」長南年恵の“世界デビュー”
藤野七穂です。ブログ第4弾です。
ASIOSのサイトにアクセスされる方なら、「長南年恵」について説明は不要でしょう。テレビでも採り上げられ、明治時代の超能力者として知られていますし、ASIOS『謎解き 超常現象』(彩図社、2009年。コンビニ限定本『謎解き 超常現象―特別編集版―』〈彩図社、2011年〉にも同じ検証報告が載っています。彼女が生きていた当時にも、「女生神」「女活神」などと新聞で報じられており、それなりに有名人であったようです。
しかし、“世界デビュー”の件は、今日ではあまり知られていないようです。長南年恵についてもっとも詳しい、丹波哲郎『霊人の証明』(角川文庫)にも載っていません。
もちろん、“世界”といっても、本人が海外に出掛けたということではありません(彼女には渡航歴はないようなので、外国に行ったことはなかったと思われます)。かつては、年恵のことが世界に向けて講演で紹介されたことがあったという話です。
昭和3年(1928)のこと。9月7日(金)からロンドンで開催されました第3回国際スピリュアリスト会議に日本代表として浅野和三郎が出席していました(日本からは他に福来友吉も出席しています)。
この会議の第4日目、9月10日(月)午後8時から各国代表の講演が始まりました。浅野は日本代表として、その日の8番目か9番目に登壇し、「近代日本に於ける神霊主義」と題して講演しています。主要な点において神道と神霊主義(スピリチュアリズム)とがまったく共通であることを述べたのだといいます。講演自体は短時間だったようです。
「人間界の方で、いかに霊界を無視し、霊魂の存在を否定すべく試みても、霊界の方では、相当活動をつゞけて居るものと見え、優れた霊能者、優れた心霊事実は、最近数十年間に、いくつもいくつも日本国に現はれました。私はそれ等の代表として、爰に長南年恵嬢に就きて、簡単に物語りたいと思ひます。彼女は修行によりて人為的に出来上つた霊能者ではなく、生来の優れた霊能の所有者でありました……。」
と、浅野はたぶん、時間を気にして早口の英語で話始めました。
長南年恵の破天荒の霊的事実を列挙していきましたが、なかでも数十本の空きビン内に一斉に各種各様の水薬が引き寄せられた(いわゆる物品引き寄せ=アポーツ現象)事実を語る段になると、満場固唾を飲んで聞きほれた、と浅野は述懐しています(「世界神霊大会の概況」)。
長南年恵は明治40年(1907)10月に死んでいますから、死後21年も経ってからの“世界デビュー”であったわけです。
当日、浅野の講演中、要所要所では拍手が各方面から起ったので相当に理解されたのではないかと浅野自身は自画自賛していますが、その後の欧米の心霊関係書に年恵が紹介されたことがあるのかはわかりません(ご存じの方があれば是非ご教示ください)。
浅野は年恵の遺族(弟)に取材して、大正13年(1924)に「長南年恵の奇蹟的半生」(『心霊界』創刊号)を発表し、昭和8年には「長南年恵物語補遺」(『心霊と人生』)を公表します。その間の昭和5年には『続幽魂問答』の付録として、前者を「長南年恵物語」と改題のうえ収録しています。それなりの反響があったのでしょう。
浅野は昭和12年に死去しますので、浅野にとって年恵は、生涯を通じて収集し得たなかでも特筆すべき「物理的霊媒」の事例であり続けたように思われます。直接の面識もないままに浅野はその能力に惚れ込んだようですが、残念ながら肯定するにせよ、否定するにせよ、今日これを検証するにはあまりにも史料が少ないのが現状です。
はじめまして。長南年恵さんの画像をよく見ると、顔が合成のようです。なぜだろう