ジェイムズ・ランディの訃報記事

本城です。

ジェイムズ・ランディの訃報記事が『ワシントン・ポスト』紙に出ていたのですが、よくまとまっていました。

そこで英語がわからない方でもお読みいただけるように、私が記事を翻訳し、ナカイサヤカさんには校正を担当していただいて、以下に翻訳記事を紹介することにしました。

どうぞお役立てください。

超常現象を暴くことに専念したマジシャンであり、ステージ・パフォーマーのジェイムズ・ランディが92歳で死去

国際的に評価されているマジシャンであり、脱出パフォーマーのジェイムズ・ランディが、10月20日に92歳でフロリダ州プランテーションの自宅で亡くなった。

彼はスプーン曲げからダウジング、チャネリング、そして信仰療法まで、超常現象のすべてを暴くことにキャリアの多くを捧げたことで、称賛と呪いの両方を受けた。

彼の教育財団はその死を発表したが、詳細は出ていない。近年、彼はガンと心臓病の治療を受けていた。

ランディ氏は根っからの懐疑論者で波風を立てることもいとわないタイプであり、マジックは手先の早業と視覚トリックであるべきと強く主張していた。そのためトリックであることを隠して、超能力だと聴衆に信じさせた同僚のマジシャンのことは軽蔑していた。

対照的に、あごひげを生やしたノームのようなランディ氏は、人々が彼のマジシャンの技によって何か説明のつかないことが起きたと誤った認識に陥ったとき(たとえばノコギリで身体が切断されるマジックで、実際はもとから足がない人を使っている場合など)、陽気に、自分は嘘つきでペテン師なのだと説明した。

彼は同じように超能力者、霊能者、予言者、占い師を軽蔑していた。
1981年にランディ氏は『ニューヨーク・タイムズ』記者の取材に対して、次のように語っている。

彼らと私の違いは、自分をペテン師だと認めているかどうかだ。彼らは認めていない。私には夜に飛び出してくる物などに関わっている暇はないのだ

それでもランディ氏はいつでも注意深く、自分は調査者であって(暴露を目的としている)デバンカーではないと説明する。そして自分は超常現象の可能性は否定していないのだが、ただ、何十年も調査を続けても証拠が見つけられなかっただけなのだと言って譲らない。

有言実行で資金提供をしたランディ氏と、1976年に彼が設立に関わった研究組織「CSICOP」(サイコップ)は、相互に同意され、科学的にコントロールされた条件下で、超常現象を示した誰にでも1億円を支払うという企画を始めた。

しかし多くの挑戦者がいたにもかかわらず、1セントたりとも受け取った者は、誰一人いないという。

ランディは最高です。彼は懐疑的な運動の先駆者でした。

と『スケプティック』誌の編集者、マイケル・シャーマーは2001年に『タイム』誌で語った。

ランディ氏は人を射る青い目と、もしゃもしゃの眉毛で、ステージやテレビに出演すると、読心術やテレパシーなどの曲芸を、普通の手業と目を欺くトリックで正確に再現してみせた。そして、数多くの人気ある信仰療法師が詐欺師だと暴いてきた。

1985年にデトロイトで行われたテレビ宣教師のピーター・ポポフによる公開のヒーリング・セッションの際、ランディ氏は女装した男性を会場に送り込んだが、ポポフは即座にこの男性の「子宮ガンを治した」

またランディ氏と彼のスタッフは、ポポフが耳に小型のラジオ受信機を装着しているのを発見。これを通じてポポフの妻が密かに会場で集めた聴衆の個人情報(住所、病気の種類など)を伝えていた。

そしてポポフは、その情報でヒーリングを行う前に聴衆に強い印象を与えることが出来たのだ。

こうした取り組みによって、ランディ氏は悪魔の手先と非難されたり、嫌がらせの手紙や聖書にかこつけた脅迫を受けたりしている。

彼は定期的に防弾チョッキを着ていた。

彼の追求によって収入が落ちたという人や、中傷を受けたという人たちからは、しばしば訴えられた。だがランディ氏は、びた一文も払わなかったと主張する。

「彼らは私のことを『老いてしなびたマジシャンのチビ』と呼ぶ」。1986年にランディ氏はAP通信に語った。

もし私が彼らの聴衆の中にいたら、私を指してこう言う。『悪魔の代理人が今日ここにいる』とね。そこで私は、お辞儀をして手を振ってやるんだ。

最も有名なのは、彼が1970年代にアメリカを魅了したイスラエルのカリスマ超能力者ユリ・ゲラーに挑んだことだ。ゲラーはスプーン曲げや他のパフォーマンスで聴衆を仰天させた。

ゲラーの能力をテストした社会的評価も高いスタンフォード研究所の科学者たちは、一部の情報が「既知の知覚の範囲外」に転送されると報告し、さらなる研究が必要であるとしていた。

これに対してランディ氏は、1973年にゲラーが『タイム』誌の編集者たちのために行ったプライベートの実演会で、スプーン曲げのパフォーマンスを観察する機会を得た後にインチキだと切って捨てた。ゲラーがすでに曲がったスプーンを紛れ込ませていたことを発見したというのだ。

その後ランディ氏は、通常の手品の手業によってゲラーのパフォーマンスを再現した。タイム誌はゲラーのことを「いかがわしいナイトクラブのマジシャン」だといい、これが二人の男の間の、数十年にわたる敵意に満ちた争いの引き金を引くことになった。

二人は全国放送のテレビで非難を応酬し、ゲラーは一連の名誉毀損訴訟を裁判所に持ち込んだ。ランディ氏によれば、訴訟のせいで弁護士への支払いが数千ドルもかかったという。しかしテレビ信仰療法師のときと同じく、彼は賠償金をまったく払わなかった。

「私に言わせれば」と、1993年に彼は『マイアミ・ヘラルド』紙に語っている。「ゲラーは、私が仕事としている業の名誉を傷つけている。それよりも悪いのは、彼は考えを形成しつつある若い世代の知性を歪めている。それは決して許されないことだ」

アメイジング(驚異の)・ランディ

ランドール・ジェイムズ・ハミルトン・ツイングは、1928年8月7日、カナダのトロントで生まれた。彼は電話会社の重役の3人の子どもの一番上だった。

IQ168の天才児と評判だったが、恥ずかしがり屋で一人でいることも多かった。貪欲なまでに好奇心に満ちて、暗記ばかりの教室での勉強に飽き飽きした彼はトロントの公立図書館に逃げ込んで、主に独学で勉強した。

まだ若いうちに伝説的なマジシャンのハリー・ブラックストーンのパーフォーマンスに触発され、マジックに強い興味を持つようになった。

17歳で彼は高校の卒業式のわずか数日前に退学。いくつかの大学の奨学金を断り、見習い手品師として旅回りのカーニバルに加わった。

彼は、緊張からくるどもりと人前で話すことへの恐怖を克服すると、あごヒゲとターバンで扮装し、様々なステージネーム(ゾ・ラン、プリンス・イビス、テレパス、グレート・ランドールなど)を使いながら、マジシャンとしての技を磨いていった。

彼は超能力とされるものには、早くから嫌悪感を持っていて、封をした封筒の中身を読む演技をする説教師に挑戦した。

私は、ただ皆にいつでも疑問を持ち続けて欲しいんだ。

と、ランディ氏は言った。

彼の予言を本気で信じた人も多かった。透視を真似たトリックのあとで(たとえば、1949年の野球のワールド・シリーズの勝者を彼は正確に予測した)、信じてしまった人に、彼の力がこの世のもの以外の何物でもないと納得させることができなかったという。

「そういうウソをついたまま生きてはいけなかった」と彼は言い、アメイジング・ランディとして昔ながらのマジックの世界へ戻った。この名は以降、不変となる芸名である。

彼はまたハリー・フーディーニのような脱出パフォーマーとなり、拘束衣や銀行の金庫室、刑務所から脱出してみせて、聴衆を興奮させた。

拘束衣を着て、ナイアガラの滝の上で逆さつりになった状態から脱出したこともある。かつて、フーディーニが1926年に亡くなる直前に打ち立てた記録を破り、氷のブロックの中での生存時間(55分間)、水に沈められた水中の密封された棺の中での生存時間(1時間44分)のギネス記録保持者だったこともある。

1950年代後半から1960年代はじめにかけては、多くのテレビ番組に出演して、ゴールデンタイムの娯楽番組に欠かせない存在となった。

1973年には、ヘビー・メタル・ロック・スター、アリス・クーパーのコンサートツアーに加わり、演奏の度にクーパーの首を切り落とす死刑執行人役を演じた。1975年にはこれとは対照的に、当時の大統領ジェラルド・フォードとファースト・レディのベティ・フォードからホワイトハウスへ招待され、子どもたちのために特別ショーを開催した。

その頃までに、ランディ氏はアメリカを終の住処としており、最初はニュージャージー州のラムソン、その後はフロリダ州のプランテーションに住んでいた。そして1987年には、法律上の名前をジェイムズ・ランディへと変更し、アメリカ国民になった。

洗練されたショーマンで、根気よく自分を売り込むランディ氏は、NBCの有名なトーク番組『ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジョニー・カーソン』に合計32回も出演した。ほかにも『オプラ・ウィンフリー・ショー』や『ラリー・キング・ライブ』、『アンダーソン・クーパー360』といった有名番組にも出演している。

ランディ氏は、広く世界をまわり、定番のマジック・ショーで大勢の人々を沸かせる一方で、家に取り憑いたポルターガイストからウィジャボード、空飛ぶ円盤、バミューダ・トライアングルでの消失事件などに至る、不可解な超常現象とされる話には異論を差し挟み続けた。

彼は、すべては大げさな話やメディアの誇大宣伝、あるいは巧みな誤魔化しに基づいていたことを解明した。

ランディ氏には10冊の単著、共著がある。多くは超常、超自然現象のデバンキングについての話を詳しく述べていて、2冊はユリ・ゲラーへの異議に焦点をあてたものだ。

また、超常現象の科学的調査委員会「CSICOP」(サイコップ、現在はCSIと改称)を創設したことで、調査の幅を広げた。会に重みを与えようと、国民的な人気がある天文学者のカール・セーガンや、SF作家のアイザック・アシモフを同会に勧誘した。

1986年には、ジョン・D、キャサリン・T・マッカーサー財団から27万2000ドル(約3000万円)の「天才助成金」を授与され、その多くをユリ・ゲラーとの法廷闘争に使った。

そして10年後の1996年、匿名のコンピューター関連の大物から200万ドル(約2億円)の寄付を受け、非営利の「ジェイムズ・ランディ教育財団」を設立。図書館の維持・管理、会報の発行、それにブログやウェブサイトの開設を行った。

2010年、81歳のときに、ランディ氏は公にゲイであることを告白した。彼はベネズエラ生まれのアーティスト、デイヴィ・ペーニャと長く付き合っていた。ところが2011年、ペーニャが偽造パスポートと偽名の使用によって逮捕されてしまう。

ペーニャによれば、同性愛への迫害をおそれて、母国への強制送還を避けるためにしたことだという。彼は罪を認め、2012年に6ヵ月の自宅軟禁処分を受けた。そして2013年、ペーニャとランディ氏はワシントンで結婚した。現在の遺族は、ペーニャと、ランディ氏の弟と妹だ。

2014年には、映画製作者のタイラー・ミーサムとジャスティン・ワインスタインが、ランディ氏の生涯を追ったドキュメンタリー映画『正直な嘘つき』を公開。

カナダの英国国教会のもとで自由に育ったランディ氏は、後年、自身のことを不可知論者と無神論者が交代しながらの人生だと述べた。彼は多くのエッセイのひとつで、若い頃に信者だった宗教について、他のものに対するのと同じように辛辣に異議を唱えている。聖書に記述される創造や処女懐胎、それにイエスの奇跡などの話も鋭く突いている。

「オズの魔法使いの方が、ずっと信じやすいよ」と彼は書く。「それに、もっとずっと面白いよね」と。

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