より奇跡的なのはどちらか

こんにちは。蒲田です。

超常現象の主張は、多くの場合体験談として語られます。合理的に考えたらとても起こりそうにないことが起こるため「超常現象」に分類されるわけですが、見間違いや、勘違い、それから騙されただけなんていう、たいして面白くない結論はどのような根拠で却下されるでしょうか。

「意識ははっきりしていたし、はっきり見た。見間違いなんかじゃない。実際に体験すれば、君にもわかるはず。」といった根拠はよく聞きます。

超常現象を信じていない人なら、ここで「オッカムの剃刀」を持ち出したりするかもしれませんね。ASIOSの趣旨に賛同しくれる方なら、マルセロ・トルッツィの「並外れた主張には、並外れた証拠が必要となる」でしょうか。

こんな状況に合ったフレーズのバリエーションをもうひとつ付け加えてみてもいいかなと思ったので紹介です。哲学者のデイヴィッド・ヒュームはこんな趣旨のことを言っています(適当に補完)。

奇跡的なできごとが起こったという主張に出会ったとき、本当に奇跡が起こったという結論と、私たちが担がれただけだという結論、果たしてどちらの結論がより奇跡的かと自分自身に問う必要がある。

「超常現象が起こる」ことよりも、「自分が間違う」ことのほうが奇跡的なできごとでしょうか?背景にある考え方は、オッカムの剃刀やトルッツィの名言と同じですが、こういう視点の置きかたも面白いですね。