『共感覚』―“オーラ”は“共感覚”か?
秋月です。二回目の登場となります。さて、何を書こうか迷ったのですが…。私、前々から不思議に思っていたことがあるのです。それは、「オーラって、もしかして本当に見えてる?」ということです。
実は先日(といっても随分前ですが)オーラが見えるという方にお会いしまして、早速見ていただいたところ、何ともうまいこと私のことを言い当ててくれるではありませんか。
そこで信じやすい私は…ハハン♪なんだか本当に見えてるみたいだなあ――と思ってしまったのです。そして、もし本当に何かが見えているとするならば、それに対する合理的な説明があるはずだろうと考えました。そんな時に出会ったのが“共感覚”です。
さて、共感覚ですが、まずご存じない方のために簡単に説明しましょう。それは「一つの刺激から複数の感覚が生ずる」こと。つまり「音を聴くと色を感じる」といったような、とても奇妙な感覚のことです。
この共感覚は、なんとなくオーラと似ていますよね。例えば、人の印象によって色を感じるという感覚が希にあるならば、それはまさにオーラのような気がします。もう、いろいろ考えるのもメンドクサイですし、この際オーラは共感覚ということにしましょう。
…とも思いましたが、私も一応ASIOSのメンバーなので、もう一度考えてみることにしました。「オーラ=共感覚」説を主張するなら、共感覚についてある程度知っておく必要があります。そう思い立って手に取ったのが、今回ご紹介する本『共感覚』です。
- 作者: ジョン ハリソン
- 出版社/メーカー: 新曜社
- 発売日: 2006/05/20
- メディア: 単行本
著者のジョン・ハリソンはロンドン大学、ケンブリッジ大学にて研究に従事する心理学者で、1990年代からこの奇妙な感覚についての研究を始めました。
本書を読むと、とても慎重に共感覚を扱っていることが伝わってきます。単純な結論には導いていないので、読んでみて消化不良を訴える方もいるかもしれません。でも逆に言えば、それ故本書が真摯な研究の成果を記した、信頼できる書籍である証とも言えるのではないかと私は思います。
著者は共感覚に対する懐疑的な視点から研究を進め、共感覚者が存在するという確信を深めていきます。そして「新生児に聴覚刺激を与えると、後頭皮質の視覚野から信号がくるのが観測される」という事実から下記のような仮説を立て検証していきます。
初期には聴覚情報を脳の視覚野に運ぶ一時的な経路があるらしい。そこで私たちの理論では、共感覚を持つ人々は成人してもこれらの経路を保持しているのに対し、共感覚を持たない人々はだいたい生後三ヶ月ぐらいまでのどこかの時点でこの能力を失ってしまい、異なった感覚からの入力を区別するように、脳の構造や接続が変化してしまったのだ、と考えている。
さて、オーラは共感覚なのかという疑問に戻りましょう。結論から言えば、それらはまったく違うものだというのが、本書を読んでの私の概観です。私の確信はまやかしだったのです。
例えば、有名な「某オーラ番組」では、霊能者二人が対象者のオーラを見て、「あなたの周りには金色のオーラが取り囲んでいるわ」「そうそうほんとうに綺麗だわ」などと言ったように、二人の霊能力者が同じ色(オーラ)を見ているかのような場面が散見されます。
しかし本書では、共感覚者にこのようなことが起こりえないことを示す多くの研究結果が記されています。例えば、共感覚で一番多いケースである、聴覚刺激によって視覚が起こる“色聴”であれば、「ある二人の共感覚者が同じ「色―単語」の対応を持っているのは非常に希であることは明らか」で「たとえ双生児の場合ですらも、ひとりひとりとても違っている」のです。
また、色と単語の対応も「Happy」だから「ピンク」とかいうような、色と単語のイメージによる関連性もありません。この事実はある共感覚者が話した言葉に端的に表れているでしょう「担任のブラウン先生の名前がおかしい、だってこの名前は緑だから」
そして、このことこそ、本物の共感覚と、後天的なイマジネーションとしての擬似的共感覚を見定める基準なのです。
よくよく考えれば、某有名霊能者が言うように「赤のオーラは情熱的、努力家」で「黄色のオーラは朗らか、ひょうきん」だなんて、まるで戦隊ヒーロー物のようです。この見立てに従えば、黄色いオーラの人はカレー好きに違いありません。
しかし、だからといって「感情と色の共感覚を持つ」人がいないとも限りません。そして彼らが自分が共感覚者だとは気付かず、オーラを見ているのだと勘違いしている場合もあるかもしれません。しかし、その場合、テレビで雄弁に語る霊能者の見るオーラとは、まったく違う色を見ていることでしょう。
そしてオーラ番組のそれは、「“共”感覚」ではなく、霊能者の一人の見解に、もう一人の霊能者が共感して、その対象者も共感するという「“共感”感覚」みたいなものだろうと思い直しました。たた、現時点では共感覚よりむしろオーラの知識が足りません。でも、オーラを体系的に捉えるのは共感覚よりも、もっと難しいだろうと、私は思います。
【参考】
▼VRもオーラも「共感覚」の一種?
(知り合いに会うと色を感じる――感情と色の共感覚を持つ――人もいるという)
http://wiredvision.jp/archives/200503/2005030901.html
【余談】
私の前エントリーでは十九世紀末前後の心霊写真を取り上げました。そして、共感覚にもその時代との接点があります。共感覚に関する関心は、まず十九世紀末に高まり、その後衰退して、また二十世紀末に高まっているのです。この本の原本は2001年に出版されたのですが、人々の関心が高まったからこそ出版されたと言えるでしょう。実際、現代の共感覚の研究は、前世紀末で確かめられなかった仮説を、現代の科学的方法で検証する作業であったとのことでした。
オーラというと、
わしゃデイリーポータルの「オーラ写真体験記」を思い出してしまう…
↓
http://portal.nifty.com/koneta05/06/19/01/
霊障戦隊オーラレンジャー! なんつって怖いな、これ。
こほん…私もオーラみえる云々は共感覚と呼ばれる代もんじゃないかと考えてたですが記事を拝読するに、はやトチリだったみたい。
わからんことを説明できそうな「説明」に頼ろうとするのは、これビリーバと変わりばえしない姿勢でしたね。
ながぴいさま
> わしゃデイリーポータルの「オーラ写真体験記」を思い出してしまう…
おもしろいですねー
「工場の二階がオーラ写真スタジオ」というのがマッドな感じで好きです。
これぞフリンジ・サイエンス!
タノQさま
> 霊障戦隊オーラレンジャー!
(笑)…戦隊物もネタに困窮してるでしょうし、こんな感じのが作られる可能性は大いにありますね。
アキヅキさんこんにちは!
本物の共感覚者の方は、自分では特殊感覚だと感じて
おられないと思いますが、あえて「オーラが見える」と主張
されている方達は、「自分は人より優れた能力がある」
と思い込んで、「自分にはオーラが見えているんだ」という
「自己暗示」によって「見えているつもり」なんだと思います。
言い換えれば、本物の共感覚者は、自分が人より優れて
いると思ってなく、「オーラが見えると言う人」は、自分は
人より優れていると「思い込んでいる」のだと思います。
「オーラ」とは、
「霊能者」と呼ばれる事に「優越感」を感じる方独特の
「自己暗示」による「幻覚」の一種ではないのでしょうか。
「オーラ写真体験記」、とっても楽しかったです。
共感覚のことはまったく知りませんでした。
いろいろあるんですね。
ところでオーラのことでなくて申し訳ないのですが、脳の事が出ていましたので、ちょっとよろしいでしょうか?
前から疑問に思っていることなんですが、TVのドラマなどでよく、ある人物の言っていることが嘘かどうかを判断するのに、視線が右に行っているか、または左に行っているかで判断するというのがあって、その根拠として右脳と左脳のそれぞれの働きが挙げられているのがありますが、本当なのでしょうか?
本当だったら、嘘発見器いらないんじゃないでしょうか?
容疑者の取り調べとか裁判も楽になりそうですが、どうなんでしょうか?
可視化されたら、目のアップを撮るんでしょうか?
頭文字(D)さま
こんにちは!よろしくお願いします。
なるほど、たしかにそういう側面もあると思います。
この本を読んで強く思ったのは、共感覚は「個性」であるということ。オーラは「能力」なんですよね。
「幻覚」についても強い興味があり(今一番興味がある)、紹介したい本もあるので、そのうち取り上げたいと思っています。
Y・Yさま
こんにちは!
その「嘘発見方法」知らないのですが、具体的なTVドラマなどがわかれば教えてください。時間があるときに探して見てみます。
右脳左脳ですが。脳に局所的な機能分担があるというのは、ある程度間違いないにしても、右脳左脳という大雑把な括りでなんでもかんでも説明できたり、判断できるという単純な考え方は、あまりにも乱暴であるように感じますよね。
この辺は共感覚の問題とも通ずるんですが。例えば脳の一部を事故や病気によって失った人が、何の問題なく生活できたり、逆に出来なかったり、視力を失った人が聴覚など別の感覚が普通の人よりも敏感であったり。脳はわりといいかげん…言葉が悪いな…フレキシブルで複雑で、そう簡単には割り切れないものだと私個人は感じています。
アキヅキさん、ありがとうございます。
具体的なTVドラマですが、私の記憶のはっきりしているのでは、櫻井翔さん主演の「ザ・クイズショウ」の大橋のぞみちゃんが誘拐された時の話です。
のぞみちゃんの命の懸かっている、とても大切な場面でした。
「科捜研の女」でもあったような気がするのですが、何話目だったかは思い出せません。
とにかくみなさん、とっても大切な局面でそれを使ってらっしゃいます。
それから「ライアーゲーム」なんていかにもありそうな気がしたので、さっき家族の持っているコミックで確認してみようと思って読んでみたのですが…
4巻の第37話(密輸ゲーム)の中でアキヤマが他のメンバーにこの説を語っています。
ところがなんと、直後に自分で否定しています。
「ああ、あれデタラメ、知らねーよ、人間がウソつく時、どこを見るかなんて」
ちょっとびっくりしたのですが、私としてはこのセリフの方がしっくりきます。
でも私の記憶にあるいろんなドラマでは、この説を肯定していました。
調べていただけたら嬉しいです。
よろしくお願いいたします。
横から口を挟んで申し訳ありません。
Y・Yさま、はじめまして!頭文字Dと申します。
先日あるTV番組で(番組名は忘れました)、
脳科学者の方が、「その人が嘘をついてるかどうかは
目線の方向である程度見分けがつくが、その人の
訓練により「判断不能」にする事も可能なので
証拠能力は高くない。」と言っていました。
要するに、この「視線の法則?」を逆手にとって、
嘘をついているのに本当の事を言っていると
相手に思わす「演技」も訓練によって可能である、
という事みたいです。
頭文字Dさま、はじめまして!
わざわざ有難うございます。
そんなTV番組があったのですか?
つまり頭のいい、演技力のある犯人?の場合など、刑事さんとか裁判官まで騙せてしまうかもしれないということになるのでしょうか?
あと、ドラマの場合、その視線を観察されている人物というのは、いつも顔を上にあげてくれているのですが(べつに顔を上げろとはいわれていないのに)、私自身はものを考えたり、思い出したりする時、どちらかというとうつむき加減で伏し目がちになるのですが、そういう人の視線でも観察しにくくはないのかな?と気になります。
視線の嘘判別に関しては、ケビン・スペイシーが出演してる方の「交渉人」なんかにも出てきてました。(つい先日の日曜洋画劇場でやってました)
これは1998年の映画らしいので、このころ、またはそれ以前から言われてる話なんでしょうね。
Y・Yさん、たしか小説で
千里眼シリーズ
ていうのが、あるですよ。
けど頭文字Dさんおっしゃるように実効性ないらしく、それは千里眼シリーズの作者も認めてるみたい。
佐藤さん、タノQさん、ありがとうございます。
しかしなんだか皆さんのお話を伺えば伺うほど、
「人の命のかかった大切な場面で使っちゃいかんだろう、その『視線の法則』!!」
という気がしてきました。
あくまでも、お話の中でのことと思った方が良いみたいですね。
でもなんだか本気にする人もいそうで気になります。
こんにちわ。
視線の動きで嘘を見破る、というのは「神経言語プログラミング」の主張の一つです。
私は持っていないのですが、「あなたを変える神経言語プログラミング」という本に載ってるかもしれません。
懐疑論者の事典でも、それについてちらりと言及しています。どうもオカルト理論のようです。
ウェブサイトだと、
http://labaq.com/archives/50773623.html
とか。
ゴロニートさん、ありがとうございます。
よくご存知なんですね、みなさん。
すごいです。
嘘をつく時の視線の動き、っていうと、確か
・ある方向を見ているときは記憶を思い起こしている時で、これは本当のことを言っている
・逆の方向を見ているときは脳が創造的な働き(嘘や言い訳を考えている)をしている時で、これは嘘を言っている
というのを聞いたか読んだかした覚えがあります。(視線の方向などは忘れてしまいました)
ゴロニートさんの提示したサイトの、視覚/聴覚記憶イメージと同形成イメージに相当するものだと思います。
じゃあ、乗り遅れた電車の中で考えておいた遅刻の言い訳を言っているときは、一体どっちなんでしょうね(笑)