ロズウェル事件の調査
調査・執筆:蒲田典弘
一般に信じられている「ロズウェル事件」とは次のようなものである。
1947年7月始め、アメリカのニューメキシコ州ロズウェルにUFOが墜落。何名かの異星人がUFOに乗っていたが、墜落の衝撃により死亡した。
軍は秘密裏に徹底的な残骸回収作業と情報統制を行ったが、想定外の事故であったため、何人もの民間人に異常な行動を見られてしまった。
UFOの残骸と宇宙人の遺体は回収されたが、1947年当時から現在まで、米国政府内の最高機密として情報隠蔽の対象のままとなっている。
1980年前後になると、いつまでも隠蔽を続ける米政府に反発するように、事件当時の軍人たちもUFOの残骸回収についてポツリポツリと話し始めるようになった。
はじめに注意すべきこと
ロズウェル事件は、1947年当時の事件と1978年以降の再調査という大きくふたつの事件に分かれている。
事件が起こったのは1947年なのだから1947年の情報が最重要であるのが当然なのだが、一般にロズウェル事件の話は1978年以降に出てきた話のみが主題となっている。
確実に事件に関係している人物も、関連が怪しい人物も含め、ロズウェル事件が異星人の乗るUFOの墜落した事件だとするすべての証言は1978年以降のものである。
さらに言えば後述するマーセル少佐の証言は1978年だが、ほかの多くの証言は1990年代に入ってからである。
1990年代になると、すべてのUFO情報がロズウェル事件と関係づけて語られるようになった。そのため、ロズウェル事件は混乱を極めることになる。
ここでは1947年当時の資料を最も重視し、1947年に起こった「本来のロズウェル事件」をメインとして書いていくことにする。
ロズウェル事件の流れ
まずは事件の信頼できるタイムチャートを確認してみよう。
1947年7月9日のロズウェル・デイリー・レコード紙の記事によると、残骸発見者のウィリアム・W・ブレーゼルは6月14日に残骸を発見した(7月9日の「THE LAS VEGAS REVIEW-JOURNAL」によると3週間前)。
現場はロズウェル北西約120kmにあるJ・B・フォスター牧場(ロズウェルというよりもコロナにあたる)。しかし、その時点では牧場の見回りを優先し残骸を放置していた。
7月4日になって残骸の回収を行った。この時点では牧場に散らばったゴミを片づける程度の認識だったのだろう。
ブレーゼルは7月5日に初めて円盤の話を聞いたということだが、この時期は6月24日にケネス・アーノルド事件が起こり、全米に円盤ブームがわき起こっていた最中であった。
大きな盛り上がりになっており円盤の回収には懸賞金も掛けられていたほどだった。この日、家へ帰ったブレーゼルは、さらに残骸の回収を行った。
ブレーゼルがジョージ・ウィルコックス保安官に残骸の話をしたのは7月7日。
保安官から連絡を受けたロズウェル陸軍飛行場のウィリアム・H・ブランチャード大佐がジェシー・A・マーセル少佐に出動を指示したのも同日である。
マーセル少佐はブレーゼルの回収していた残骸を受け取るとともに、午後には2時間程、自分も現場で残骸を回収した。
マーセル少佐は直帰し、次の日の朝に基地に戻った(7月9日の「Fort Worth Star-Telegram」)。
マーセル少佐とウォルター・G・ハウト中尉による公式プレスリリースの後、7月8日のデイリー・レコード紙夕刊には第一報が載った。とても迅速な報道が行われたと考えていいだろう。
この報道は地元紙だけでなく、UP、APなども取り上げ全米から国外まで広まった。
マーセル少佐はプレスリリースを指示した後、残骸とともにフォート・ワースの第8空軍司令部に飛んだ。
第8空軍司令官のロジャー・M・レイミー准将に届けられた残骸は、レイミー准将とトーマス・J・デュボーズ大佐により、気象観測用気球であると識別された。
フォート・ワース基地の気象官アーヴィング・ニュートン准尉はその識別結果を再確認した(7月9日の「Fort Worth Star-Telegram」)。
ニュートン准尉は、残骸をマスコミに公開する際に、説明を行う役も担った。
7月9日にはレイミー准将の説明が大きく報道され、ロズウェルに墜落した残骸は気象観測用の気球だということで決着がついたのである。
残骸はどんなものだったか
残骸については、当時の新聞から得られる証言に加えて、フォート・ワースで撮影された5枚の写真が存在する(マーセル少佐と写ったものが2枚、ニュートン准尉と写ったものが1枚、レイミー准将とデュボーズ大佐と写ったものが2枚)。
以下はそのうちの3枚。残りの2枚はこのページの1枚目と4枚目に掲載した写真。
証言によれば残骸には、アルミホイル、硬い紙、テープ(スコッチテープ)、木片(バルサ材)、ゴム片が含まれていた。
写真に見られるのはバルサ材に張り付けられたアルミホイルのようなものと黒い固まりである。写真の黒い物体はネオプレン製の気球の残骸だと考えられるが、そうすると証言と写真の残骸は一致する。
残骸を回収した際の話もみてみよう。マーセルと平服の部下はブレーゼルのところに残骸を回収に行った際に、残骸から凧を組み立てようとした。
「気球を持ち上げてみたとき」という証言もある。(7月9日の「Roswell Daily Record」)
ブレーゼルは最初に残骸を見つけたとき気象観測用の装置だと思った(7月9日の「The Wyoming Eagle」)。ただし、後からは今まで見たことのある気象観測用装置とは違うとも語っている。
FBIの機密文書では「円盤は気球からケーブルでつり下げられている」「高高度気象観測用気球に似ている」と説明されている。(7月8日のFBI機密文書)
どうやら正体不明だったのは「気球からつり下げられたもの」であって、気球の存在は合意された事実と考えて問題なさそうだ。
これらの情報からイメージすると、牧場に墜落したのはネオプレン製の気球と、それにつり下げられた凧状の物体(バルサ材と紙で裏打ちされたアルミホイルで構成された物)ということになるだろう。
合理的な結論と合理的な疑問
残骸の正体について上記のようなことがわかった。軍はこの残骸の正体について高高度気象観測用装置であるという結論を下した。当時、気象観測用に使われていた装置は大きく分けてふたつある。
ひとつは、ネオプレン製の気球にラジオゾンデをつり下げたもの(※1)であり、もうひとつはネオプレン製の気球にレーダーリフレクター(※2)をつり下げたものである。
※1 現在でもラジオゾンデをつけた気象観測用気球は気象庁等により打ち上げられている。
※2 気球の動きによって上空の風向きと風速を知ることができる装置。レーダーを用いることで目視できないぐらいの高度にあっても気球の追跡を行うことが可能。レーダーで良く見えるようにレーダーを効率的に反射させるのがレーダーリフレクターの役割。
後者のレーダーリフレクターはアルミホイルとバルサ材で構成されるので、軍としては残骸が後者の気象観測用気球であると識別したのであろう。
ニュートン准尉が新聞で触れていたように、当時、このような気象観測用気球は一般的に使われていたのであるから(7月9日の「Roswell Daily Record」)、この結論は十分に合理的だといえる。
しかし、まったく疑問が残っていない状態ではない。一般的な気象観測用気球はひとつの気球とひとつのレーダーリフレクターという構成になる。ブレーゼルが語る残骸の量は次のようなものだった。
「回収されたアルミホイル、紙、テープ、木片を集めると、長さ3フィート(90センチ)、厚さ7~8インチ(20センチ)の束になった。ゴム片の方は長さ18~20インチ(50センチ)、厚さ8インチ(20センチ)の束になり、残骸全体で5ポンド(2.3kg)ほどの重量」(7月9日の『Roswell Daily Record』)
あくまでブレーゼルの見積もりであるからどれだけ正確かは不明であるが、見積もりがある程度妥当だとすると、気象観測用気球としては回収された残骸が多すぎるという疑問が残る。
懐疑論者の結論とは
この問題を解決できる結論が、現在の懐疑論者の定説となっている。それはモーガル気球のフライトNo.4が残骸の正体だという結論である。
モーガル気球のプロジェクトは当時最高機密のプロジェクトだった。(※3)
※3 モーガル気球は成層圏と対流圏の間の大気層まで上昇して、そこでとどまるよう設計されていた。地球上のどの場所で起こった爆発音でもこの大気層で検知できる。この性質を利用して、上空を伝わる低周波の音波を継続的に監視し、ソ連が核実験を行っているか判断しようということで始められた計画。
フライトNo.4では、20個以上のネオプレン製気球(連結気球)と3個以上のレーダーリフレクターを備えていた。(※4)
※4 フライトNo.4の正確な構成は不明であるが、フライトNo.2と同様の構成とされており、フライトNo.2は23個のネオプレン製気球と3つのレーダーリフレクターを装備していた。
ただし、すべてがフォスター牧場に墜落したとすると、今度は残骸が少なすぎるということになる。
フライトNo.4は一部をフォスター牧場に落としたあと、しばらく飛行を続けたと考えることもできため、残骸が多すぎる場合よりは問題が少ない。フライトNo.4は6月4日に打ち上げられたと考えられており、日付の整合性もとれている。
こういった理由で、モーガル気球説は1994年に発表された空軍のロズウェル事件調査レポートでも最終結論として採用されている。
結論は揺るぎないものか?
モーガル気球という結論は確かに説得力のあるものである。しかし、揺るぎない結論というには証拠が弱いことも否めない。
モーガル気球説の最も強力な証拠は、プロジェクトの気球打ち上げを担っていたニューヨーク大学のクラリーの日記と、研究者の一人であるチャールズ・B・ムーア教授の記憶(これも、およそ40年間の時間を経た記憶である)なのである。
クラリーの日記については、6月4日にフライトNo.4が打ち上げられたのかキャンセルされたのか、議論が生じてしまうような曖昧な書き方しかされていない。
ムーア教授は6月4日の3時に気球が打ち上げられた前提で、フライトNo.4の飛行経路を計算し、フォスター牧場に墜落した可能性が高いと結論したが、クラリーの日記の解釈が違えばこの飛行経路の計算はあてにならない。
また、モーガル気球の構成をみたときに一部だけフォスター牧場に落としたのならば、いくつかの気球といくつかのレーダーリフレクターをセットで落としたというのも都合の良い仮定だろう。
もちろん不可能ではないが、普通ではない状態に思われる。
7月10日の『Alamogordo News』によれば、当時、アラモゴード陸軍航空基地からワトソン研究所AMC実験部隊によってレーダー追尾訓練用気球が打ち上げられていた(事件から遡ること15ヶ月に渡って打ち上げられていたとのこと)。
同紙の写真を確認すると打ち上げていた2つの気球と2つのレダーリフレクターで構成された機器である。
これがフォスター牧場に墜落したとしてもブレーゼルの見積もりよりは少量の残骸とはなるが、ブレーゼルの見積もりが少し多めであったと考えれば整合性はとれることになる。
都合のよい仮定ではあるが、モーガル気球の一部が墜落したと考えるよりはあり得るように思える。
なお、ホワイトサンズ性能試験場にもレーダーリフレクターを用いた気球のプロジェクトが存在した。こちらの方は、プロジェクトの詳しい情報が見つからないため、可能性の高さを検討することも難しい。
ただし、レーダー追尾訓練用気球仮説にはモーガル気球の研究に参加していたムーア教授による反論が存在する。『Alamogordo News』の報道はトップシークレットであったモーガル気球プロジェクトを隠蔽するための軍の情報工作だというのだ。
その根拠は『Alamogordo News』で触れられた、以下のような特徴がモーガル気球のプロジェクト特有のものであるからだという。
- 航空機(B-17)を用いた回収グループが存在すること
- 3万~4万フィートの高度に達すること
- 早朝5:00~6:00に気球を打ち上げること
- 気球がコロラドまで飛んだこと
- 複数の気球と複数のレーダーリフレクターを用いること
- 打ち上げ直前に気球を煮立てること
- 脚立の上から気球を放つこと
しかし当時、大学院生であったムーア教授がアラモゴード近辺で行われている他の軍事プロジェクトや演習の状況や手法まで詳しく知っていたと考えるのは行き過ぎであるように思える。
また、個人的印象に過ぎないのだが、政府や軍がこのような手の込んだ隠蔽工作を行うのは違和感がある(※5)。
※5 UFO関連でいえばCIAや空軍などがUFOの情報を隠していたことはある。しかし情報隠ぺいの方法といえば、隠蔽工作と呼べるようなものではなく、単純にしらばっくれる、無視するという手法が普通である。
もちろん、ムーア教授の主張が正しければ、やはりモーガル気球が残骸の正体だったと考えていいだろう。
確実に言えること
可能性を検討するといくつかの説を考える必要があるものの、確実に言えるのは、ロズウェル事件においてフォスター牧場に墜落し、ブレーゼルによって回収された物体は、ネオプレン製の気球とレーダーリフレクターの残骸だったということだ。気球の墜落は6月上旬から中旬に起こった。
もし、当時どこかにUFOが墜落していたとしても、それは7月8日の『Roswell Daily Record』夕刊で報道された「本来のロズウェル事件」とは無関係である。
参考資料
- 蒲田典弘『Myth of Roswell Incident』(http://www.geocities.jp/myth_of_roswell/)
- ASIOS『謎解き 超常現象』(彩図社)
- U.S. Air Force『The Roswell Report: Fact Versus Fiction in the New Mexico Desert』
- Benson Saler, Charles A. Ziegler, Charles B. Moore『Ufo Crash at Roswell: The Genesis of a Modern Myth』