錯視が単純に間違いだとは言えないよ
こんにちは。蒲田です。
前回は錯覚は単なる「間違い」とか「非合理」とか言われるものではなくて、人間が生きていく上でとても役立つ、必要な機能だという話で終わりました。
「そうは言っても、ああ見えるのはただの間違いだということに変わりないでしょ」という気持ちが残ったままの人がいるかもしれませんね。では、さらにもうちょっと入り込んでみましょう!
実は、錯視の原因となっている機能の中には、現実をきちんと認識するために必要な機能もあるということが言われるようになってきています。まずは、とても有名な「ミュラー・リヤー錯視」を見てみましょう。
実際の縦の直線の長さは同じなのに、Aは長く見え、BはAよりも短く見えます。ここまでは、今までの錯視の説明と一緒です。次に部屋の画像を見てください。部屋の画像の中にミュラー・リヤー錯視が隠れています。
(下條信輔 1999 <意識>とは何だろうか-脳の来歴,知覚の錯誤- 講談社現代新書 p.16を参考に作成)
Aは長く見えて、BはAより短く見えます。三次元の現実世界では遠近感がありますから「遠くにあるものは小さく見えるはず」ですよね。こういった考え方を進めれば、「遠くにあるものが近くにあるものと同じ大きさに見えるんだったら、遠くにあるものの方が大きいはず!」というのは、合理的な判断ですよね。
脳では、こういった処理を自動的に行って、遠くにあるものを実際に目に映ったものより大きく見せてしまうのです。専門用語ではこういった機能を「視覚の恒常性」と言います。
二次元(平面)として見ると間違いかもしれませんが、三次元(立体)の世界で、現実を認識するときには、「同じ大きさとして目に映っているのだから、同じ大きさなのだ」というのが間違いで、「遠くにあるものが近くにあるものと同じ大きさに見えるんだったら、遠くの方が大きいはず」という方が正しいということになります(前述の下條氏の本によれば、ポンゾ錯視やポッゲンドルフ錯視も立体視機能の表れだとされています)。
これが、ヒューリスティックな情報処理の面白いところです。こういった処理があるからこそ、遠くにいる人を小さく見えるというだけで「小人だ!」と間違って判断するがないわけですし、平面に書かれた絵を見てもその中に立体を感じることができるといった具合です。
平面に書かれた絵に奥行きを感じたり、平面に映し出されている写真や動画を見て奥行きを感じても、それを間違いだとか非合理だとかいう人はいないのではないかと思います。
もう、単純に「間違いだ」とか「非合理だ」とか言えなくなったんじゃないでしょうか?人間は色々と間違うかもしれませんが、それは別に愚かなわけではなく、排除すべきものでもなく、当たり前のことなんです。そういう認識を持った上で、時には道具を使って、上手に自分の視覚と付き合っていけばいいんですね。
こういった話を面白いと思う人なら、私たちが言う「事実であるかどうかに関わらず、真相を調べるという行為は、行為そのものが面白い」というのを理解してもらえるんじゃないかな。