FF11から考える宗教的儀礼の起源
若島です。
突然ですが、大人数参加型のオンラインRPG、ファイナルファンタジー11を通じて、形骸化した宗教的儀礼の起源について述べたいと思います。なんの関係があるんだ?って感じですね。
さて、なにを隠そう私は2005年10月末より、PS2が連続運転に耐え切れず凄い音が鳴り死亡するまでの期間、オンラインゲームのFF11にどっぷりと、はまっていたのであります。
もう廃人ばりにはまっていて、たとえるならば、デブがマンホールに落ちたと思いきやズボっと挟まっているぐらいにはまっていました。で、FF11なんですが、これはゲームの性質上、レベルを上げるために強いモンスターと戦うわけです。
そして、それを合理的に遂行するためには、見ず知らずのユーザーと6人PT(パーティ)を組む必要があります。呼びかけたりするんです。友人同士だけで固定PTをする者もいますけど、大抵は、その都度その都度、見知らぬ者同士がメンバーを誘い誘われることでPTをつくるのですね。
外国人と英語がわからない日本人でPTを組むこともしばしばで、まあそれゆえに、いろんなトラブルや珍事件もありますし、そして人間同士が生み出すドラマも生まれます。
そして―ときには、どんな演出家がどれほど工夫を凝らそうとも、絶対に表現できない、用意できないような、感動の、自分だけのドラマが産まれることさえあります。
これは、私が経験した人間的なドラマの一つです。ある日のこと、6人で挑んだモンスター。我々は強すぎる敵に挑んでしまい、勝ち目がない状態に追い込まれた。全滅の危機。
体力がなくなり、倒れるということは、ユーザーにとっては「死」であり、数時間みっちりやった経験値を台無しにする、重い重いペナルティである。
敗走するPT
そんなときに、一人の戦士が全員に叫んだ。
「あっちへ逃げて!!」
自己犠牲の精神を発した戦士は一人、逃げるのをやめた。その場に立ちどまり、モンスターを挑発し、モンスターの怒り、攻撃を、一身に引き受けだしたのだ。
そして、敗走する瀕死の5人とは逆方向に、一人で走っていく。6人がかりで全滅寸前に陥った強敵を一人で、誰もいない方向へ引き連れていく。その先にあるのは・・・・確実な死
だけど、自分の体力が0になるまで、ひたすら仲間との距離が離れるように、戦士は、何とか自分の命を繋げるかぎりつなぎ、遠くへ走る。一人でモンスターを挑発し、ひきつれて逃げる。仲間達と逆方向に走っていく。
一回の攻撃が、最大HPの2割を削るような凶悪な攻撃を喰らい続けた戦士は、圧倒的な攻撃力の差によって死ぬ。だけど、その戦士が、そこまでモンスターを引き連れたおかげで、残りの5人の仲間は、生存を目指した逃走に成功する。
MAPが切り変われば追撃を振り切れる。私を含む5人は、見事に逃げ切った。助かったのだ。戦士の尊い自己犠牲の精神と、その勇敢な行動によって。。逃げきれた5人。しかし、そこに安堵はあっても、歓喜はない。
モンスターが戦士をなぶり終わり、満足そうに去ったことを確認してから、5人の生存者は、戦闘不能になり死体のように倒れている戦士の元へかけつける。
そして同時に並ぶチャットのコメント
「ごめん」
「もうしわけない」
「sorry」
「sorry;;」
「私のミスです。。」
全員が悔やむ。
数時間前に初めて会ったばかりの5人の仲間の、その生存と引き換えに、確実な死を選んだ戦士。一人、経験値がパーになったことと、その重さを、全員が痛いほどに知っている。
そのとき、戦士は健気にも答える。「気にしないで」「これが私の役目ですから」と。
以上、オンラインゲーム、ちょっとイイ話でした。
で、おわりではなく、それはさておき・・・
このようなときの「ごめん」「気にしないで」という、生存者と犠牲者のやり取りは、お互いの心の痛みを理解しあう者達にとっての、自然ないたわりであって、こころを癒すための儀式でもあるのだと。
「ごめん」「すまない」という本気の想いを感じるからこそ、倒れた者も「気にしないで」と、健気にも、笑顔で応えようとするわけです。
私は思う。宗教的儀礼の起源というものは、もしかしたら、このようなやりとりが、いつしか本来の意味を失い、形式だけが残ったものなのではないだろうかと。