マルセロ・トルッツィ
本城です。
今回は海外の懐疑論者を紹介します。第一回目はマルセロ・トルッツィ。
といっても日本ではほとんど知名度がないため、ご存知ない方が多いですよね。まずは簡単な略歴から紹介します。
マルセロ・トルッツィ (Marcello Truzzi)
1936年、デンマーク生まれ。東ミシガン大学の社会学教授。アマチュア・マジシャン。サーカス団員の一家に生まれ、1940年にアメリカに移住。プロマジシャンだった父親の影響で子どもの頃からマジックに親しみ、10代の頃はサーカスの手伝いなどをしていた。
その後、社会学に興味を持ち、研究者としての道を歩み始めると、子どもの頃から興味を持っていた超常現象の調査も始める。
1976年にはアメリカの懐疑主義団体「CSICOP」(サイコップ)の創設メンバーとして同会に参加。初代副会長、会誌『ザ・ゼテティック』(現『スケプティカル・インクワイアラー』)の編集長を務める。
しかし77年になるとサイコップの活動方針に不満を示し脱退。新しく『ザ・ゼテティック・スカラー』誌を刊行。81年には「トルッツィ科学的異常研究センター」(CSAR)を設立。
「ニセ懐疑主義」という言葉をつくり、さらに調査する前に判断を下そうとする者を「ニセ懐疑論者」と呼んで注意を促した。自らは「スケプティック/Skeptic」(懐疑論者)に替わる立場として、「ゼテティック/Zetetic」(探求者)というラベルを使用。
海外では、「ドライ」な立場の懐疑論者の対比として、「ウェット」な立場の懐疑論者の代表として挙げられることがある。2003年に67歳で逝去。
……と、こんなところです。ご覧になってもらえばわかるとおり、トルッツィはサイコップ脱退後はアメリカの懐疑主義の主流からは外れていたので、日本の懐疑論者の間での知名度は低いのかもしれません。
しかし私は、彼の主張や理念には共感するところが多く、日本でももっと知られるべき人物だと考えているので今回紹介している次第です。トルッツィの特徴としては、上でも触れたドライとウェットの対比がわかりやすいと思うので紹介しましょう。
懐疑論者のスタンス/「ドライ」と「ウェット」
【ドライ】
肯定派をまじめに相手にする理由はない。ちょっとした常識があればそのテのアイデアが完全に馬鹿げていることは分かる。「彼らのアイデアを理解する」ために時間を費やすことや、虚偽を暴くのに必要な程度以上に「彼らの証拠を調べる」ことは時間を浪費するだけだ。さらにそういう振る舞いは彼らに体面を与える。我々が真剣に取り扱ったら他の人も同じ事をするだろう。我々は彼らのアイデアがどんな馬鹿なことか他の人が分かるように冷やかさなければならない。「抱腹絶倒一回は三段論法千回の価値がある」のだ。
【ウェット】
彼らの言うことに丁寧に耳を傾けないで攻撃すれば、二つの危険を侵すことになる。1. 本当に正しい人を見失ってしまう。
2. 彼らに我々を攻撃する武器を与えてしまう。人身攻撃や感情的な批判は我々を彼らと同じレベルに落としてしまう。我々が本当に理性的で科学的ならば、彼らに証拠を請求した後で良く考えた見解を述べることが要求される。(「sci.skeptic FAQ」より)
海外では大きく分けて上の2つのスタンスがあり、「ドライ」の代表はマーチン・ガードナー、「ウェット」の代表はトルッツィだといわれています。(ちなみに、現在の私のスタンスは「ウェット」のほうに近く、ASIOSという団体としてのスタンスもこちらに近いものです)
トルッツィは、超常現象に関する主張をすべて嘲笑し、より深い調査をしない傾向にあるドライな立場に批判的でした。そして、本当の懐疑論者が目指すべきスタンスとして「ゼテティック」というラベルを考案しました。
さらに彼は、「まじめな調査もせずに疑似科学のレッテルを貼って、多くの調査領域を前もって決めつける」立場を「ニセ懐疑主義」とし、そのような行動をとる者を「ニセ懐疑論者」と呼んで注意を促しています。
しかし海外の懐疑論者の間では、トルッツィは肯定派をまじめに扱ったり、調査後の判断が慎重だったことなどから、それほど高い評価は受けていないようです。以下は、トルッツィが周囲からどう見られているかよくわかる本人のコメントです。
「超常現象を支持する友人たちからは、私はガチガチの懐疑派と見られています。しかしマーチン・ガードナー氏のような徹底した暴露家たちからは、私は優柔不断で単純とみなされているのです。つまり両側から責められているわけです」
これなどは、中立であろう、公正であろうとしたトルッツィらしい責められ方だなと思います。
最後になりますが、トルッツィの名言を紹介しておきましょう。
「並外れた主張には、並外れた証拠が必要となる」
今ではカール・セーガンの名言として知られていますが、正確にはトルッツィが最初に自著で書き、それをセーガンが広めたものでした。