聖徳太子の地球儀の調査
調査・執筆:原田実
兵庫県太子町の斑鳩寺(いかるがでら)は聖徳太子開基という古い寺院だが、その寺宝に「地中石」というものが伝わっている。
驚くべきことにそれは陸地を凸面、海を凹面で表した石製の地球儀だ。
聖徳太子といえば、今から1400年も前の人。その当時は東アジアでは地球が丸いという概念さえ知られていなかった。
しかも、その地球儀には、ヨーロッパ、アジア、アフリカだけでなく、両米大陸(1492年発見)や南極大陸(1820年発見)など、大航海時代以降にはじめて明らかになった地域の地理まで正確に作られているという。
この地球儀がいかにして作られたか、その手がかりと思われるのが、ちょうど太平洋の真ん中にあたる箇所にある巴状の三つの陸地だ。
それは今から約1万2000年前に太平洋に沈んだというムー大陸ではないかとされている。
つまり、この地球儀はまだムー大陸が存在した時代の地理に基づいていると考えられるのだという。
聖徳太子はムー大陸時代の超古代文明が残した知識を何らかの形で受け継ぎ、この地球儀を作ったのだろうか?
地球儀の正体
「地中石」は実際には石ではなく、海藻糊(かいそうのり)を混ぜた漆喰(しっくい)でできている。漆喰に海藻糊を混ぜる技法は戦国時代以降の日本に特有のものだ。
南極大陸に相当するところの陸地部分には「墨瓦蝋泥加」という書き込みがある。
これはいったん紙に書いたものを生乾きの表面に埋め込んだもので、完成後の書き込みではありえない。墨瓦蝋泥加は「メガラニカ」の音写だ。
17~18世紀、現実の南極大陸はまだ発見されていなかったが、当時のヨーロッパの世界地図では北半球の陸地とバランスを取るため、南極の位置に架空の大陸を書き込む慣習があった。
メガラニカはその架空の大陸の呼称の一つで、その名は南半球経由で世界一周航路を開いたフェルディナンド・マゼラン(1480?~1521)に由来する。
18世紀の初めには、日本でもヨーロッパの世界地図にならった地図がさかんに刊行されており、墨瓦蝋泥加の名もそこに見ることができる。
つまり、この地球儀は江戸時代の半ばころ、西洋伝来の最新知識に基づき、その当時の技法で作られたものと考えられるのだ。
たまたま、それが聖徳太子開基の寺に奉納されて寺宝になっただけで、それを聖徳太子が作ったというわけではなかったのである。
では、ムー大陸に見えるものの正体は何か。地中石を現実の地球儀と比べると日本列島や沖縄の南に連なるはずの島々が本来の位置になく、代わりに太平洋に多くの陸地ができていることがわかる。
フィリピン、インドネシアの島々はデフォルメされ、実際よりも東に移動させられているのだ。
漆喰を固めて球状にするという作業のためには表面の凹凸はなるべく万遍なく配置されていることが望ましい。
地中石での「ムー大陸」の正体、それは製法上の問題から、太平洋の真ん中に移動させられたフィリピン、インドネシアの島々の一部だったと考えられるのである。
参考資料
- 小林恵子『聖徳太子の正体』(文藝春秋、1990年)
- 豊田孝次『「日本」と決めた日・始源篇』(文芸社、2002年)
- 「聖徳太子が残したオーパーツ謎の地球儀の秘密を探れ!」
( http://www.ntv.co.jp/FERC/research/20030302/f0276.html) - 「書評シリーズ『絵地図の世界像』」
(http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/review/review2.htm) - クリフォード・ウィルソン『神々の墜落』(大陸書房、1976年)
- H ・ユウム、S ・ヨコヤ、S ・シミズ『「神々の指紋」の超真相』(データハウス、1996年)
- ウィリアム・H・スタイビング『スタイビング教授の超古代文明謎解き講座』(太田出版、1999年)